1452年 4月15日、レオナルドは、公証人セル・ピエロと一家に仕える農家の娘カテリーナとの間に、庶子として誕生する。

復活祭後の第一日曜日にサンタ・クローチェ教会で洗礼を受け、14歳頃まで自然豊かなヴィンチ村で育つ。

1469年 アンドレア・デル・ヴェロッキオに弟子入りする。(14歳でヴェロッキオに弟子入りした説もある)ブルネレスキが考案した、建築機械やネジ・複雑な舞台装置などに強い影響を受ける。

1472年 画家組合、聖ルカ同信会に登録。
1473年 レオナルドの手による最初の作品『アルノ渓谷風景画(素描)』を描く。1480年頃までに、ヴェロッキオが制作していた『キリストの洗礼』の天使部分や『受胎告知』『ジネヴラ・デ・ベンチの肖像』『ブノワの聖母』『カーネーションの聖母』などを描く。
1480-1482年頃 『聖ヒエロニムス』と『東方三博士の礼拝』未完成に終わる。
レオナルドは、ヴェロッキオに弟子入りしてからミラノに移るまでに、絵画や彫刻、祝祭用の衣装、舞台装置、建築から武器、鋳造に至るまで、多種多様な技術や専門知識を身につけ、工学的な素養が培われた。
1482年 フィレンツェからミラノに移る。レオナルドは、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァに自薦状を書き、後に仕えることになる。

1483年 無原罪懐胎同信会と、聖フランチェスコ・イル・グランデ聖堂内の祭壇画『岩窟の聖母(現在ルーヴル美術館所蔵)』の制作契約をアンブロージョとエヴァンジェリスタのデ・プレデス兄弟らとともに契約を結ぶ。
1489年 ジャン・ガレアッツォとイザベラ・ダラゴーナの婚儀の祝典で、舞台美術を担当。フランチェスコ・スフォルツァの騎馬像の計画に着手。
1490年頃 天文や水力学などの研究を始める。『ウィトルウィウス的人体比例図』の素描やチェチーリア・ガッレラーニの肖像画『白貂を抱く貴婦人』を制作。
1492年 ルドヴィーコ・イル・モーロとベアトリーチェ・デステの婚儀祝典でパレードのコスチュームを制作。
1495-1497年 サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂を飾る『最後の晩餐』を制作。

1495-1498年 スフォルツァ城内アッセの間の室内装飾を手掛ける。
1499年 フランス軍がミラノを占領後、友人の数学者ルカ・パチョーリ(神聖比例の著者)とともにミラノを後にし、ヴァプリオやヴェネツィア、マントヴァに滞在した。マントヴァでは『イザベラ・デステの肖像(素描)』を描いた後、フィレンツェに向かう。
レオナルドは、1482年にフィレンツェからミラノに移り住んでから1499年にミラノを去るまでの17年の間に、数学者のルカ・パチョーリやシエナの建築家フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニらと親交を深め、科学技術的な知識を吸収する幸運に恵まれ多才な才能を開花させた。
絵画は『ラ・ベル・フェロニエール』『音楽家の肖像』『リッタの聖母』もミラノ(レオナルド工房で制作した絵画も含む)で描いている。
1500年 フィレンツェに戻りサンティッシマ・アヌンツィアータ修道院に滞在する。
1502年 チェーザレ・ボルジアに、軍事兼土木技師として仕え、ロマーニャ地方の遠征に同行し築城法や兵器の研究を行う。
1503年頃 『モナ・リザ(ラ・ジョコンダ)』の制作を開始。フィレンツェ政庁より、ヴェッキオ宮殿に『アンギアーリの戦い』の壁面の制作依頼を請ける。アルノ河の運河計画を立案、飛行と解剖、運動力学の研究を再開する。
1504年 『アンギアーリの戦い』の制作に着手。特殊な絵具を用いたため未完に終わり、飛行の研究を続ける。
1505年 鳥の飛翔の研究と飛行に適した場所を探し求める。
1506年 フィレンツェを一旦離れミラノへ。
1506-1507年頃 老人の解剖をする。
1500-1508年の間に『聖アンナと聖母子のためのカルトン』『聖アンナと聖母子』『レダと白鳥(行方不明)』『糸巻きの聖母』も描いている。
1508年 フィレンツェからミラノに移る。
1509年 ロンバルディアの渓谷に赴き、地質と化石の研究。
1510年 パドヴァ大学で、マルカントニオ・デッラ・トッレと解剖学の研究をする。
1511年 マルカントニオ・デッラ・トッレがペストで亡くなったため、解剖の研究を一人で続ける。絵画は『岩窟の聖母(現在ロンドン・ナショナルギャラリー所蔵)』を制作。
1513年 ジュリアーノ・デ・メディチの招きによりローマへ、解剖や数学、科学的研究を続ける。絵画は『洗礼者ヨハネ』を描いている。
1516年 フランス王フランソワ1世の招きを受け、フランスのアンボワーズ城の近くクルーの館(クロ・リュセ)に移り住む。

1517年 ロモランタンを訪ね、宮殿とソローニュ地方の運河改修計画を練る。
1518年 フランス王の従妹マドレーヌとウルビーノ公ロレンツォ・デ・メディチの婚儀祝典の舞台装置をデザインする。王太子の洗礼式に参列。

1519年 4月23日に遺言状を作成し、レオナルドが書いた文書類(手稿と素描)と所持品を、弟子であり友人であったフランチェスコ・メルツィに譲るとしたためた。5月2日、クロ・リュセで死去。

フランチェスコ・メルツィは、レオナルドが遺した文書類(手稿と素描)を大切に扱っていたが、メルツィが亡くなってから貴重な文書類は散逸し始める。
※詳しくは「手稿と素描」のページで解説しています。